蒐集家について想うこと

蒐集家は(しゅうしゅうか)と読み、コレクターと同義である。   筆者はご存知、最小限主義者であるので特定の物を集めるということはしていない。 しかし興味が無い、と言えば嘘になる。   筆者がはじめて蒐集という物に興味を抱いたのは、あるテレビのドキュメンタリー番組で、ブックデザイナーの祖父江慎氏が取り上げられた時のこと。 祖父江氏はあらゆる年代に出版された夏目漱石の「こころ」を蒐集しているという。   このことに筆者は無闇に心を動かされ、蒐集とは良いものだなと思ったのであった。   もう何年も前の番組であったが、当時から筆者はそれほど物を増やさぬように暮らしていた。 今と大きく違うのは電子書籍という物はなかったので大量の本を抱えていたことくらいであろうか。   蒐集の何にそれほど心動かされたのかと言えば、それは蒐集物にその人となりが反映され、一つの物に心奪われ固執する様にどうしようもない人間臭さを感じたからであった。   自分にも何か世界中を巡って集めたいと思うような物は無いだろうかと思案してみたが、これといって思い至らず、自身にそれほど夢中になれる物が無いことに失望を感じ、今に至る。   何も思い浮かばないということは無かったが、そこには、あまりお金は掛けられない、希少性の無い物は嫌だ、人と同じ物は嫌だ、など高すぎる理想が邪魔をしたのであった。   今では手の施しようが無くなった筆者の人生を振り返れば多少なりとも集めた物も存在した。 幼少の頃はおもちゃの類いであり、特に20円で1枚吐き出されるカードダスという物に心酔した。 しかし、販売期間の限られた商品を少ないお小遣いが頼みの小さき筆者が集めきれるはずも無く、そのことに気付いてしまえばどうでも良くなるという完璧主義ぶりであった。 幼少時からAll or Nothingで物事を判断するあまり可愛いとは言えないお子様だったのである。   その次に集めたものは漫画や本である。 全ての巻、全てのシリーズ、好きな作家の物であれば全てを取り揃えた。 これはさほど難しくはなかった。 なにせ書店に行けば簡単に買えたし、絶版本などを買い求める程のマニアックさも持ち合わせてはいなかったからである。 しかし、彼らはどうしようもなく場所をとる。 たかが200冊や300冊程度だろうと言うなかれ。後に最小限主義を掲げる人物であることを忘れてはいけない。   それに趣向というのものは移り行くものであって、かつて楽しめたものが今となっては・・・というのはよくある話である。 ご多分漏れず筆者も移り行く趣向によって蒐集した本を入れ替えて来たのである。 ここに人となりを現すような、人間くささを現すような、そんな蒐集癖は存在していない。 それ以来蒐集家とはめんどくさくもなんとなく憧れる、そんな存在である。     何か物を集めてしまうという行為に人間臭さを感じるのであれば、今筆者が暮らす最小限世界に人間らしさは存在しないのか。 否、むき出しの人間であろうとしている。   しかし人間らしさなどということを口にするのは人間だけである。 一本でも人参、二足でもサンダルである。 筆者は筆者らしくあろうと思うものである。   これからも最小限主義者であると自称するつもりの筆者であるが、いつか何かに心を奪われるものがあれば蒐集家の道をひた走るということもあるかもしれない。 その時は「あいつはやっぱりやわらかかった。」という誹謗中傷も甘んじて受け入れよう。   その時々で楽しいと思うことをする。 それが筆者の思う筆者のしからしむるところである。