続・ライフログ、日記あるいは遺書

ライフログは生前と死後でその意味合いが全く異なる。 生前のライフログは有用であると筆者も思う。 何時、誰と何処で会い何を話し何を感じたのか。どんな本を読みどの部分に感銘を受けたのか、またはどんな内容が睡眠を促すのか。何を食べれば身体にどんな影響が出始めるのか。後ろ姿をみて正面に廻りたくなる女性の特徴は何か。   しかしそれは記録に多くの時間を割かない場合に限られる。 一日を反芻してそれに対して感じた事、考えた事を書き連ねているといつの間にか時間を費やしている事が度々ある。 そしてその多くは見返す事も無いような内容なのだ。 そんな事をしているのには理由があって、一日にあったネガティブな事を書き出して処理してしまえば引きずらない、といったことを何処かで読んだからだ(また忘却)。 これで決着のつく事もあれば無い事もある。 とにかく多少の無駄を感じる行為ではある。 iphoneが歩数やカロリーを記録してくれるようにいつの間にかやっておいてくれるものがあればいいと思う。   生前のライフログはそれぞれが有用な形で出来ればいいのではないか、と無責任に思う。 もちろんそんな記録はしないというのもいいだろう。   問題は死後である。 筆者は死んだら何も残したくない。せめて残すものはコントロールしたい。 そして出来れば死期も自分で決めたい。   しかしそううまくいかないのが動物の死であるから、たまに、というか割と高い頻度で「今日が人生最後の日だ。」と思い、身辺整理を行ったりする。 とは言っても物はほとんど片付いてしまってるから概ねデジタル機器に残されたウェブサイトの閲覧履歴や件の日記を削除したりするくらいだ。   そんなふうなので筆者はライフログにはあまり向いていないと言えるかもしれない。 最小限主義(あるいはただの綺麗好き)は死生観から来ているのではないかと大真面目に思う。 死にたい訳ではないが何時死んでもいいようにしておきたい。 それが物やデータを片付けておく事なのかと言えば直接的にはそうではない。 そうではないのだが人が自分の死に対して準備しておける事とは一体なんだろうか。 エンディングノートなんてものが流行ったようだが筆者は遺書すら残さないだろう。 そしてそれに該当し得る日記やログにいたるまですべてを削除する。   よく映画やドラマで「死んで忘れられるのが怖い。」といった御涙頂戴のシーンがあるけれども筆者はイマイチピンとこない。 人間は自分の死を経験出来ない訳であるからして。 死んでしまえばそれまでだ。サヨナラだけが人生だ。 自分の世界が終わる、それはそのまま世界の終わりを意味しているとか哲学の泥沼は今は置いておこう。 死というどうにも抗う事が出来ない事象。 どうせどうにもならないならせめて再び0(ゼロ)に戻っておこうと考えるのはなぜだろうか。わからない。 そう考えることで人生の無意味がより浮き彫りになったとしても今更絶望したりなどしない。   人間の記憶、それがそいつの人生そのものなのだと言っていたのは誰だったか(また忘却)。     一向にまとまる気配を見せないのでここまでとする。 ブログに書くにはテーマが大きすぎた、というか勝手に転がっていっただけだが・・・。 意味無し、オチ無し、利益無し。今回は筆者の悪癖が存分に出た。 風呂敷はどこまでも広がっていく。   今日のおやすみミュージック Gerry Mulligan Sextet ー Night Lights